今日で75年・・・。

広島ブログ

今日で75年です。
いつからかというと広島に原爆が落とされてから75年です。
原爆が投下された当初は75年草木が生えないといわれていたそうです。人類の居住地に初めて落とされたため、その後がどうなるか誰もわからなかったため、75年は草木も生えないだろうといわれたのでしょう。
その75年が経ちました。

新型コロナウイルスに苦しめられていますが、広島は今日も元気です。(今私が住んでいるのは呉ですが・・・)

以前書いた原爆に関するブログを集めてみようと思います。

今日は以前予告しておりました原爆についてです。
皆さんご存知の通り、昭和20年8月6日8:15に世界で初めて原子爆弾が都市に落とされました。
爆心地は原爆ドームから少し離れた場所だったと記憶しております。(原爆ドームが爆心地と勘違いされることが多いですが、実は少し離れているんです。原爆ドームが当時の時代の最先端を象徴する建物だったらしく、その象徴があの姿になってしまったということで残されたようです。)

このとき私の父は4才でした。
父はこの時の記憶はないそうです。(あまりの恐怖で記憶を封印してしまった可能性がありますが・・・。)
これは祖母から聞いた話です。
何かに守られたと思える話でした。

爆心地から2Km程度の自宅(己斐の実家です)で被爆しましたが全くの無傷だったそうです。
父も、叔母も祖母も・・・。
やけども怪我も無いという奇跡に近い状況だったそうです。

私はその話を小学生のころ聞いて、感動した覚えがあります。
本当にその一瞬にどこでどんな格好でいたかで、運命が決まったようです。
奇跡的に難を逃れた我が家族の話です。
昭和20年8月6日の朝、通常ならば畑仕事に出ている祖母ですが、この朝は朝からお腹の調子が悪く、とても畑仕事になりそうにないため家にいたそうです。(こんなことはあまり無かったようですが、その日はたまたま調子が悪かったようです。)
(これが一つ目の奇跡でした。畑仕事に出ていれば熱線を受けたはずなので、無傷ということはありえませんでした。)

そんな状況の中、朝8時15分より少し前、祖母はお腹の調子が悪かったため、家の裏手のトイレに行きました。トイレから出て手を洗おうとした運命の瞬間、家の裏側(北側、爆心地の反対方向です。)の窓から凄まじい光が見えたそうです。
この時のことを私に
『シャーー、シャーー、シャーと光が降り注いだ!!!』と表現していました。
このときには何が起こっているのかわからなかったそうです。
(これが二つ目の奇跡です。家の裏手にいなければ、その瞬間に家の表側で何かしていれば熱線を浴びていたはずなのです。)
(降り注ぐ光が見えるわけはないので不思議に思って、小学生のころに聞いていた覚えがありますが、ふと気づきました。恐らくこの光が降り注いだのは網膜に放射線(恐らくα線)が当たって放射線を見たのだと私は考えています)

家の周りでは、山や畑あちこちで火の手が上がっていたそうです。
それだけ凄まじい熱だったようです。
この話を聞いた時、畑仕事をしていれば・・・。無傷はありえないよね。と強く思いました。

次に凄まじい爆風が来て家が揺れ、家の窓ガラスは全て割れ、家の中に吹き込みました。
(これが三つ目の奇跡でした。家の中にいるだけで縁側のガラスが突き刺さっていたはずなのです。家にいただ誰もが無傷という意味で、本当にこのタイミングでの爆発は奇跡的でした。そうでなければ、家の中にいるだけで、祖母は少なくとも怪我をしていたはずなのです。それが家の裏手にいた瞬間だったので、全くの無傷でした。私はこの話を聞いた時に、先祖が守ってくれたのか?そのためにお腹の調子を悪くしたのか?と思ったほどでした。)

しばらく呆然とした後に、ふと我に返った祖母は、子供たち(私の父と叔母)は!!??
と周りを見回したそうです。
その瞬間子供たち(私の父と叔母)がトコトコっと歩いてきたそうです。
そうんなんです。全くの無傷で歩いてきたのです。
(これが四つ目の奇跡でした。父は全く覚えていないそうですが、父も家の表側や家の中で被爆していれば無傷はありえない状況でした。この瞬間家の外で遊んでいれば私はいなかったかも知れないのです。)
私の父と叔母を抱きしめた祖母にフーっと生暖かい風が吹いたそうです。
その後何日間か声が出なかったそうです。
(医学的に考えれば極度のストレスで失語症になったようです。子供だった当時は無傷でも声を奪う程強烈な爆弾だったんだ・・・。と思いました。)

最後の奇跡は私の親戚は何人か広島市内にいたはずですが、みんな死ななかったのです。奇跡に感謝でした。

追伸:
毎年8月6日に平和記念公園で記念式典が開かれますが、その際20歳の成人が平和の鐘をつくのですが、その候補に実は選ばれました。しかし代々広島にいながら、誰も亡くなっていなかったので、辞退いたしました。(今考えれば出ればよかったなと思います。)

別の日に書いたブログです。

ある80代の患者さんからお伺いした話です。
その患者さんはずっと呉に住んでおられるそうです。
そこで原爆の日の話をお伺いしてみました。
すると・・・。
その患者さんは役場にお勤めで、原爆のあった日に広島に行かれる用事があり、駅まで行かれたそうです。
そこで、『広島がやられた!汽車は動かん!』と言われたそうです。
仕方なく役場に帰られたそうですが、役場の誰もが信じてくれなかったそうです。
『そんなことがある訳なかろうが!』と言われたそうです。
つまり患者さんが嘘をついているかのような扱いだったそうです。

その後しばらくして大惨事が伝わったそうです。
それだけ信じがたい出来事だったようです。
直後はすぐ近くの呉ですら状況がわからなかったようです。

そんな威力の爆弾があるなんて思いもしなかったでしょうからね(><)

草木が生えないといわれていた75年を今日迎えました。
幸いにしてこの75年草木が生えないといわれていたのは間違いでした。
ただ本当に75年間草木が生えないとしたら、ぞっとします。

そして広島に原爆が落とされた3日後に長崎に原爆が落とされてしまいましたが、その後75年間は人類に対して原爆が使用されたことがないのは幸いでした。
今後二度と使われることがないように祈っています。
核兵器廃絶が叫ばれていますが、私は核兵器だけでなく銃も含めた全ての兵器の廃絶ができるような平和な世の中になってほしいなと思っています。
核兵器は極端なだけで、銃一つとっても兵器は何も生み出すことはありません。

そもそも兵器が必要ないような世の中になるといいですね。
自分たちの欲をコントロールできない子供のような国家が力ずくで欲を満たそうとするから戦争が起こってしまいます。
みんながら自分たちの欲をコントロールできるような大人のような国家ばかりになってほしいですね。

銃や刀の必要ない世界・・・。(日本はかなり近いですが、残念ながら警察官は護衛のために銃をもっています。警察官の銃すら必要のない世界という意味です)
私が生きているうちに実現できると良いですね。

追記)これまで人類の歴史において、強大な敵がいると争っていた人たちが協力して立ち向かうことがありました。例えば薩摩と長州ですが、共通の敵である幕府を倒すために坂本竜馬が仲立ちになり薩長同盟が成り立ちました。
人類共通の敵である新型コロナウイルスに対して人類が一致団結して戦い、全ての争いを避けることができるといいなと夢物語を夢想しています。
誰か新型コロナウイルスに対して人類を一致団結させるような知恵を持った、坂本龍馬のような人が世界に出没してくれないですかね・・

ウイルスや病原菌との闘いは仕方がありませんが、言葉と知恵を持った人と人とが争うなんて勿体ないですね。
一日でも早く人類の戦いが終わりますように。

 

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